第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 |
かつて、13条は、14条以下に列挙された個別の人権を総称したもので、そこから具体的な法的権利を引き出すことはできないと解されてきたが、社会・経済変動の中で生じた諸問題に対して、法的に対応する必要性が増大し、その意義が見直されることとなった。その結果、13条の規定する幸福追求権によって基礎付けられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになった。判例も、具体的権利性を肯定している(参照:京都府学連事件)。
新しい人権として主張されたもの
プライバシーの権利、環境権、日照権、静穏件、眺望権、入浜権、嫌煙権、健康権、情報権、アクセス権、平和的生存権等。
最高裁によって認められた人権
プライバシーの権利としての肖像権のみ
これらの権利について、明確な基準もなく、裁判所が憲法上の権利として承認することになると、裁判所の主観的な価値判断によって権利が創設される恐れが出てくる(→三権分立)。そこで、憲法上の権利と言えるかは、さまざまな要素を考慮して慎重に決定されなければならない。
消極的意義…プライバシーの権利は、放って置いてもらう権利としてアメリカの判例で発展してきた。日本国でも、「宴の後」事件一審判決において、「私生活をみだりに公開されない法的保障ないし権利」と定義し、憲法上に基礎付けられた権利であることをみとめた。プライバシーの権利は、広く、個人の人格的生存に関わる重要な私的事項は各自が自律的に決定できる権利と言える。
積極的意義…自己に関する情報をコントロールする権利(情報プライバシー権)と捉え、自由権的側面のみならず、プライバシーの保護を公権力に対して積極的に請求していくという側面が重要視されるようになってきている。
(→宴のあと事件)
第十四条 1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。 |
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 |
1、思想・良心の自由
憲法19条が保障する「思想」と「良心」の意味については、特に区別する必要はない。「思想・良心」は、世界観、人生観、主義、主張などの個人の人格的な内面的精神作用を広く含む。
・保障の意味
個人がいかなる思想を持とうとも、それが内心に留まる限りは絶対的に自由である。そして、国家権力は、内心の思想に基づいて、不利益を課したり、特定の思想を持つことを禁じたりすることができない。
さらに、個人がいかなる思想を持つかについて、国家権力により露顕を強制されない。すなわち、思想について沈黙する自由が保障される。国家は、直接・間接を問わず、国民の思想を調査することは許されない。
・限界
思想・良心の自由の絶対的保障との関連で問題となるのが、謝罪広告を強制できるかという問題である。
学説
1、謝罪広告強制は違憲であるとする見解
謝罪・陳謝という行為には、一定の倫理的な意味がある点を重視する。
また、憲法19条にいう思想・良心は、「人の内心におけるものの見方ないし考え方の自由」であるとし、「内心の自由一般」が保障されているとして、謝罪広告の強制は、本人の意思に反して、事物の是非・善悪の判断を外部に表現せしめ、心にもない陳謝の念の発露を強制するものであり、違憲であるとする見解もある。
2、謝罪広告強制は合憲であるとする見解
思想・良心とは、世界観、人生観など個人の人格形成に必要な、もしくはそれに関連のある内面的な精神作用であるとし、謝罪の意思表示の基礎にある道徳的な反省や誠実さというような事物の是非・善悪の判断などは含まないとして、謝罪広告の強制は、必ずしも思想・良心の自由を侵害するものではないとする。
判例
この点、判例は、「単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあっては、」強制しても、憲法19条に反しないと判示した。(最大判昭31・7・4)
2、信教の自由
第二十条 1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 |
・限界
宗教上の行為の自由は、信仰の自由と異なり、公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要な制約に服する。しかし、宗教上の行為の自由に対する規制は、必要不可欠な目的を達成するための最小限度の手段でなければならない。行動の自由の規制であるとは言え、内面的な信仰の自由に深くかかわる問題であるから、慎重な対処が求められる。
(判例:牧会活動事件、日曜日授業参観事件、剣道実技拒否事件、オウム真理教解散事件)
・ 政教分離原則
憲法20条1項後段、3項は、国から特権を受ける宗教を禁止し、国家の宗教的中立性を明示した規定である(なお、「特権」の解釈については争いがある)。判例は、いわゆる制度的保障の規定であると解しているが、「制度の核心」は必ずしも明確ではない。政教分離原則を財政面から裏付けているのが、89条である。
・政教分離の形態
イギリス型… 国教制度を建前としつつ国教以外の宗教に対して寛容を認める。
イタリア・ドイツ型… 国家と教会とは独立であることを認め、競合する事項についてはコンコルダート(政教条約)を締結し、それに基づいて処理すべきとする。
アメリカ型… 国家と宗教とを厳格に分離し、相互に干渉しないことを建前とする。
日本国憲法の政教分離原則は、アメリカ型に属する。
・政教分離の限界
政教分離原則といえども、国家と宗教の関わり合いを一切排除する趣旨ではない。そこで、国家と宗教との結びつきがいかなる場合に、どの程度まで許されるかが、問題となる。
アメリカの判例では、この種の問題について、目的・効果基準と呼ばれる基準が用いられてきた。この基準は、@問題となった国家行為が、世俗的目的をもつものかどうか、Aその行為の主要な効果が、宗教を振興しまたは抑圧するものかどうか、Bその行為が、宗教との過度の関わり合いを促すものかどうか、という三要件を個別に検討して、政教分離原則違反の有無を判断し、1つの要件でもクリアできなければ、右行為を違憲とするものである。
日本でも、それを変容した形ながら、公権力の行為が憲法20条3項で禁止される「宗教的活動」にあたるかを判定するに際し、用いられている。
(判例:津地鎮祭事件、自衛官合祀拒否事件、愛媛玉串料訴訟)
3、学問の自由
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。 |
・内容
学問の自由の内容には、学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由がある。
学問の自由の中心は、真理の発見・探求を目的とする研究の自由である。それは、内面的精神活動の自由であり、思想の自由の一部を構成する。また、研究の結果を発表することができないならば、研究自体が無意味に帰するので、学問の自由は、当然に研究発表の自由を含む。
教授の自由については、争いがある。
従来の通説・判例(東大ポポロ事件判決)は、教授の自由を、大学その他の高等研究教育機関における教授にのみ認め、小・中学校と高等学校の教師には認められないとしてきた。しかし、現在においては、初等中等教育機関においても教育の自由が認められるべきであるという見解が支配的である。
初等中等教育機関における教育の自由が肯定されると、教育内容・教育方法について国が画一的な基準を設定し、あるいは、教科書検定を行うことが教育の自由を侵害するものではないかが問われることになる(家永訴訟、旭川学テ事件)。旭川学テ事件において、最高裁は、普通教育においても、「一定の範囲における教授の自由が保障される」ことを認めた。しかし、教育の機会均等と全国的な教育水準を確保する要請などがあるから、「完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない」と判示した。
・学問の自由の保障の意味
まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは、禁止することは許されないことを意味する。
なお、近年の最先端科学技術研究のもつ重大な危険性に鑑み、研究の自由を制限する法律を制定することも許されるのではないかという見解も有力となっている。
第二に、学問の自由の実質的裏づけとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味する。
・大学の自治
大学の自治の観念は、中世ヨーロッパ以来の伝統に由来し、大学における研究教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部の勢力が干渉することを排除しようとするものである。
これは、学問の自由の保障の中に当然に含まれており、いわゆる「制度的保障」の一つということができる。
1、表現の自由の価値
内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてはじめて社会的公用を発揮する。その意味で、表現の自由はとりわけ重要な権利である。
表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)であり、もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主制に資する社会的な価値(自己統治の価値)である。
2、知る権利
表現の自由は、思想・情報を発表し伝達する自由であり、本来、「受け手」の存在を前提にしており、知る権利を保障する意味も含まれている。20世紀に入り、社会的に大きな影響力をもつマス・メディアが発達し、そこから大量の情報が一方的に流され、情報の「送り手」でありマス・メディアと情報の「受け手」である一般国民との分離が顕著となった。さらに、情報が社会生活においてもつ意義も、飛躍的に増大した。そこで、表現の自由を一般国民の側から再構成し、表現の受け手の自由(聞く自由、読む自由、見る自由)を保障するため、それを「知る権利」と捉えることが必要になってきた。
・知る権利の法的性質
知る権利は、「国家らからの自由」という伝統的自由権であるが、それにとどまらず、参政権的(国家への自由)的な役割を演ずる。
さらに、知る権利は、積極的に政府情報などの公開を要求することのできる権利であり、その意味で、国家の施策を求める国務請求権ないし社会権(国家による自由)としての性格をも有する。ただし、それが、具体的請求権となるためには、情報公開法などの制定が必要である(注:既に制定されました)。
3、アクセス権
知る権利と関連して、マス・メディアに対するアクセス権が主張されることがある。つまり、情報の受け手である一般国民が、情報の送り手であるマス・メディアに対して、自己の意見の発表の場を提供することを要求する権利(意見広告や反論記事の掲載など)の意味に使われることが多い。しかし、私企業たるマス・メディアに対する具体的なアクセス権を憲法21条から直接導き出すことは不可能であり、それが具体的な権利となるためには、特別の法律が制定されなければならない。
(判例→サンケイ新聞事件)
4、表現の自由の意味
表現の自由は、すべての表現媒体による表現に及ぶ。
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